<|"Title"->"CIHCD2022 インタラクティブセッション","Keywords""みんなの認知症情報学会","発表","Deadline"DateObject[{2022,10,23}],"NextReview"->DateObject[{2022,10,22}],"Status"->"Done"|>
CIHCD2022
発表申し込み 09/30
概要動画作成
概要動画ファイル提出 10/09
GatherTown設定で use original audioを選択しているので音の扱いに注意
Automatically AudioMuteをオフにしておかないと別のアプリに切り替えたときに音声が途切れることがある
発表オリエンテーション 10/23 11:00 (Gather town上で発表オリエンテーション)
インタラクティブ発表 10/23 15:40 (1h)
オンラインごちゃまぜ交流会 10/23 16:50 (1h)
当日情報
当日情報
アブストラクト
アブストラクト
認知機能低下を支援するという視点からみたプレゼンテーションツール
認知機能低下を支援するという視点からみたプレゼンテーションツール
一般に、このインタラクティブセッションのような設定をプレゼンテーションと称するが、そもそも介護者や医師に自分の症状を説明する場合であっても、プレゼンテーションを行っていることに変わりない。ライブかつ時間制限がある中で説明する、またそれを聴くという設定は、認知機能の低下や変動の問題を抱えている発表者、視聴者双方にとって高いハードルとなる。わざわざ専用アプリで発表準備をしなくても、日常自分が記録に利用するツールが自己説明的であって、そのままプレゼンテーション機能を有している設定の可能性について、個人的な実例を紹介する。
インタラクティブ発表用 (Gather.town)
インタラクティブ発表用 (Gather.town)
Out[]=
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補足説明用動画
補足説明用動画
持続的自己説明的実行可能文書について 昨年のみんなの認知症情報学会第4回年次大会での概要動画 (7min)わたしの「ノートブック」の現状 今回のプレゼンの準備に関する説明を含む動画 (3.5min)
さらに詳しい説明は以下の動画とノートで
さらに詳しい説明は以下の動画とノートで
認知機能低下を支援するという視点からみたプレゼンテーションツール デモ動画を含む、より詳細な説明動画 (30min)とそのノートブックファイルノートブックのリンクテーブルとその使い方 自己説明的実行化の最初のステップとして、ノート、Todo, スケジュール、カレンダーの一件書類化
概要動画用スライド
概要動画用スライド
認知機能低下を支援するという視点からみたプレゼンテーションツール
認知機能低下を支援するという視点からみたプレゼンテーションツール
今井 克暢 (広島大学情報科学部)
◼
生活のすべてはプレゼンテーション
日常生活において、自分を含めた誰かに何かを説明する場はすべてプレゼンテーション
◼
ライブかつ時間制限を課されることが多い
認知機能の低下や変動の問題を抱えている発表者、視聴者双方の課題
◼
あらたまってプレゼンテーションをしますなどと言わずとも
日常的に記録に自分が利用するツールが自己説明的なら、それ自体がプレゼンテーションのはず
◼
そもそもプレゼンテーションのための(同期した)時間、空間を規定する必要はない
医師を前にして自分の症状を緊張しながらの説明は不要 リハーサルが済んでいたら本番は不要!
長めの説明動画は |
このQRコードから |
In[]:=
toggleAllSlideCellBrackets[InputNotebook[]]
In[]:=
slideCatalog[,]
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想定発表時間 |
メモ
メモ
本発表に関連する事項のメモ (脈絡のない記述も入っているため、読みにくいかもしれません)。
発表者と視聴者の「今」
発表者と視聴者の「今」
◼
そもそもPowerPointのようなプレゼンテーション専用アプリを用いるのではなく、日常自分が記録をとるために利用しているツールが自己説明的であって、そのままプレゼンテーションにギャップなくつながっていてほしい。
◼
認知能力に問題を抱えた視聴者と発表者
介護者も認知症患者も、ときに発表者となり視聴者となる。また介護者も認知能力に問題を抱えている場合を想定する必要がある。
介護者も認知症患者も、ときに発表者となり視聴者となる。また介護者も認知能力に問題を抱えている場合を想定する必要がある。
◼
発表者も視聴者も、それぞれの「今」しか見えないし見ていない
人間は自分が必要だと思うタイミング「今」で対象が目の前に現れないと認識できない。
健常者であれ認知症患者であれ「今」は等しく「今」であり、認知能力と「思考、作業履歴」を格納する記憶と、その時点の自分の置かれた状態の違いに依存した「今」の長さや領域に違いがあるだけである。
発表者が発表者の「今」をプレゼンし、視聴者の「今」と重なれば何らかのコミュニケーションが成立するが、重なりがなければ何も伝わらない。これは健常者であれ認知症患者であれ基本的には変わらない。
人間は自分が必要だと思うタイミング「今」で対象が目の前に現れないと認識できない。
健常者であれ認知症患者であれ「今」は等しく「今」であり、認知能力と「思考、作業履歴」を格納する記憶と、その時点の自分の置かれた状態の違いに依存した「今」の長さや領域に違いがあるだけである。
発表者が発表者の「今」をプレゼンし、視聴者の「今」と重なれば何らかのコミュニケーションが成立するが、重なりがなければ何も伝わらない。これは健常者であれ認知症患者であれ基本的には変わらない。
◼
非同期な臨場感
そもそも生活のすべてがプレゼンテーションになれば、あえてプレゼンを設定するまでもない。もちろん、今後現れるかもしれない視聴者にとって、わたしがその文書を作成した時点の「今」の共有は難しい。どうすれば今後現れるかもしれない視聴者に対して、作業履歴としての「過去」すべてに、両者の「今」の臨場感を残せるか?もちろんわたし自身が、その視聴者となる可能性が最も高いが、そのときは完全にその記憶を失っていることもあろう。ただ、記憶を失っているからと言って過去のわたし自身と「今」を共有できないとは限らない。
そもそも生活のすべてがプレゼンテーションになれば、あえてプレゼンを設定するまでもない。もちろん、今後現れるかもしれない視聴者にとって、わたしがその文書を作成した時点の「今」の共有は難しい。どうすれば今後現れるかもしれない視聴者に対して、作業履歴としての「過去」すべてに、両者の「今」の臨場感を残せるか?もちろんわたし自身が、その視聴者となる可能性が最も高いが、そのときは完全にその記憶を失っていることもあろう。ただ、記憶を失っているからと言って過去のわたし自身と「今」を共有できないとは限らない。
◼
(残念な)例: プレゼンツールとしての服薬管理アプリ
服薬管理アプリは服薬について視聴者としてのわたしにプレゼンしてくれるツールである。
発表者はアプリを設定する自分自身かもしれないし、薬剤師が設定してくれるかもしれない。
iOS, AppleWatchの服薬管理アプリを試してみているのだが、わたしにはうまく使いこなせない。
わたしにとって薬を飲むことができてかつ薬が手の届く場所にあり、かつ薬を飲む時間が取れるとき =「今」以外のタイミングで投薬アプリがわたしに飲む薬についてプレゼンしてくれても、わたしが適切な視聴者としてスタンバイできていない(わたしの「今」は別のところにある)ためうまくいかない。
服薬管理アプリが、それにとっての「今」= 食間の服薬時刻、に「プレゼン」を試みたとしても、例えばわたしはそのとき見たいテレビを見ていたり、電車の中だったり、トイレだったりして、そのプレゼンを視聴する意味がある「今」ではない可能性が高い。
発表者はアプリを設定する自分自身かもしれないし、薬剤師が設定してくれるかもしれない。
iOS, AppleWatchの服薬管理アプリを試してみているのだが、わたしにはうまく使いこなせない。
わたしにとって薬を飲むことができてかつ薬が手の届く場所にあり、かつ薬を飲む時間が取れるとき =「今」以外のタイミングで投薬アプリがわたしに飲む薬についてプレゼンしてくれても、わたしが適切な視聴者としてスタンバイできていない(わたしの「今」は別のところにある)ためうまくいかない。
服薬管理アプリが、それにとっての「今」= 食間の服薬時刻、に「プレゼン」を試みたとしても、例えばわたしはそのとき見たいテレビを見ていたり、電車の中だったり、トイレだったりして、そのプレゼンを視聴する意味がある「今」ではない可能性が高い。
つまり服薬管理アプリとわたしはそれぞれ非同期なプレゼンの発表者と視聴者にならねばプレゼン自体が成立しない (現状の同期プレゼンでは成功率が高くできない)。
そして、認知能力の低下とともに、「今」の領域が先鋭化しやすくなってしまうのかもしれない。
そして、認知能力の低下とともに、「今」の領域が先鋭化しやすくなってしまうのかもしれない。
服薬管理アプリにもToDoアプリのような通知の先送りボタンがある。
認知能力が落ちている発表者や視聴者が先送りボタンを押しても、つぎの「プレゼン」が両者にとっての「今」をちゃんとお膳立てしてくれるわけではない(薬を飲むという作業以外に先送りボタンを押すという新たな「プレゼン」が増えて、さらに面倒になるだけである)。
認知能力が落ちている発表者や視聴者が先送りボタンを押しても、つぎの「プレゼン」が両者にとっての「今」をちゃんとお膳立てしてくれるわけではない(薬を飲むという作業以外に先送りボタンを押すという新たな「プレゼン」が増えて、さらに面倒になるだけである)。
cf. 目覚まし時計とその先送りのスヌーズ機構がそれなりにうまく機能するのは、発表者としての目覚まし時計(またはその時刻に設定した過去の自分)と視聴者であるわたしが、客観的な起床時刻「今」を共有しなくてはならないということ自体がプレゼンの目的であるから。先送りとしてのスヌーズボタンは「今」を共有することにあまり積極的ではない視聴者としてのわたしに少し考える時間を与えているようなものである。 さすがにこのこじつけはちょっと無理があるかな
検索するとは何か?
検索するとは何か?
◼
検索データと情報 (インフォメーション)
今のわたしは検索結果としてのデータは望んでいない。インフォメーションがほしいのである。
(information は検索するという問い合わせの意思を伴うことによって得られるデータで、適切なプレゼンテーションの結果として得られる。)
(information は検索するという問い合わせの意思を伴うことによって得られるデータで、適切なプレゼンテーションの結果として得られる。)
◼
自己説明的実行可能文書がなぜ必要なのか?
検索することと、検索結果を「プレゼン」することは常に対になっている
検索結果を自分が把握し腑に落とすことは自分へのプレゼンである。プレゼンのためには検索結果に対して何らかの情報処理が必要であり、それは必ず何らかの作業のレシピやプログラムを必要とする。
その作業のレシピやプログラムと、データ自体がプレゼン文書と共に一件書類化されていなければ、「今」が変化したときや認知能力が変化したときのプレゼンテーションのために、データをそろえなおす段階、すなわち検索からやり直して作成しなおす必要が起きるだろうし、情報処理を行ったプログラム自体を再び探し出して適用しなおさなければならなくなる。
cf. 持続的自己説明的実行可能文書について @ みんなの認知症情報学会 第4回年次大会 (CIHCD 2021) (1min)
自己説明的実行可能ドキュメント(認知症のための「杖」:その後)
検索結果を自分が把握し腑に落とすことは自分へのプレゼンである。プレゼンのためには検索結果に対して何らかの情報処理が必要であり、それは必ず何らかの作業のレシピやプログラムを必要とする。
その作業のレシピやプログラムと、データ自体がプレゼン文書と共に一件書類化されていなければ、「今」が変化したときや認知能力が変化したときのプレゼンテーションのために、データをそろえなおす段階、すなわち検索からやり直して作成しなおす必要が起きるだろうし、情報処理を行ったプログラム自体を再び探し出して適用しなおさなければならなくなる。
cf. 持続的自己説明的実行可能文書について @ みんなの認知症情報学会 第4回年次大会 (CIHCD 2021) (1min)
自己説明的実行可能ドキュメント(認知症のための「杖」:その後)
「容量が変化する通信路」を使って伝送情報量を最大化するには動的に適切な「今」にあわせた符号化をその都度施す以外にないね。
◼
「あらためて探す」という行為自体がおかしい
◼
スマホ前提世代の認知能力低下が始まりつつあるもはや50代以下はだいたいスマホを持っているだろう。スマホやタブレットで何かを説明しようとするときに関連資料がすぐに出てこないことがある。「この前の健康診断の結果はどこいった?...」 などのようにいらいらしながら写真を検索したりする。そもそもその資料や写真を撮ったときに紐づいていてすぐに出てきてしかるべきデータや、受け取ったはずのメールをメール一覧をいくらしらべても出てこない。スマホが自己説明的であってほしいと願ってもばちはあたらないのでは? Siriさん、本気で期待していますよ!(iOS, Androidの縦割りアプリのままではやはり厳しかろう。 Newton Message Pad の Soup があてにできればよかったのに、と。)そもそも、初めから紐づいていることがわかっているデータのはずなので、あらためて探すという行為自体がおかしい設定だと思う。縦割りアプリではその壁を越えてあるはずのデータに問い合わせることすらできない。
◼
とはいえ、「あらためて探す」行為自体がまったく無益ということわけでもない。
"Life is searching!" 頭をひねらずにモノを捜し出せるようになったらおしまい[ki 2626]なのである。
http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf のp.68
実例については http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf のp.418-419参照
しかし、探索空間は自分の認知能力に応じてあらかじめある程度お膳立てされる必要がある。
"Life is searching!" 頭をひねらずにモノを捜し出せるようになったらおしまい[ki 2626]なのである。
http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf のp.68
実例については http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf のp.418-419参照
しかし、探索空間は自分の認知能力に応じてあらかじめある程度お膳立てされる必要がある。
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新たなものを見つけることと「こういうものがあったはずだ」と探すことの違い
https://home.hiroshima-u.ac.jp/imai/bpes-96/documents/OHP/page00.html
https://home.hiroshima-u.ac.jp/imai/bpes-96/documents/OHP/page00.html
◼
「今」を可視化する
刹那的にデータ検索はできても、その検索結果を自分に対してプレゼンできる「今」という期間が認知能力の低下に伴ってどんどん短くなる。
「今」は、わたしの自発的な検索とその結果をわたしが視聴者として読み取る過程の繰り返し履歴から推定できるかもしれない。
適切な記憶の外部化を図り続けることは当然として、わたしの「今」の構造を、履歴を持つナレッジグラフ上 (i.e. わたしのknowledge home の中) で、自分のその時の認知能力に合わせた解像度で自分に対して可視化できなければ、短くなる「今」の問題に対処できない。
cf. http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.100
小学生のころの「今」が大学生ごろのそれより長かったとは思えないし、むしろ短かったと思うが、真に短かったのかどうかも定かではない。「今」は受け取る情報に依存するだけでなく、視聴者の状態によって変化する。
cf. http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.100
小学生のころの「今」が大学生ごろのそれより長かったとは思えないし、むしろ短かったと思うが、真に短かったのかどうかも定かではない。「今」は受け取る情報に依存するだけでなく、視聴者の状態によって変化する。
もちろん、わたしの「今」がどういう構造で、どれだけ変化、縮小しているのかを認識することはとても難しい。
その変化を容易に認識できる事例もある。
珠算で読み上げ算のトレーニングをすると、読み上げ者の読み上げる数値を記憶しておく能力が上昇し、打ち間違えても、その間違いを修正するのと同時に読み上げ者の次の読み上げ数値をキューに追加するように記憶し、読み上げと非同期に打ち込めるようになる。この例では拡大しているように見える。
珠算で読み上げ算のトレーニングをすると、読み上げ者の読み上げる数値を記憶しておく能力が上昇し、打ち間違えても、その間違いを修正するのと同時に読み上げ者の次の読み上げ数値をキューに追加するように記憶し、読み上げと非同期に打ち込めるようになる。この例では拡大しているように見える。
しかし、ワーキングメモリの使われ方の違いであり、それは「攻撃モード」になることで交感神経亢進状態を作り、特定の対象に集中度合いを変化させているだけかもしれない。
むしろワーキングメモリを、数値を正確に記憶するために使うために集中することで、このノートで議論している「今」は縮小している。この状態では読み上げ者の「プレゼン」結果としての数値を視聴者として正確に受け止めるためだけに「今」が使われていることを意味する。
むしろワーキングメモリを、数値を正確に記憶するために使うために集中することで、このノートで議論している「今」は縮小している。この状態では読み上げ者の「プレゼン」結果としての数値を視聴者として正確に受け止めるためだけに「今」が使われていることを意味する。
Excelで複数のセルを同時に扱う能力を失う事例では、一見すると縮小しているように見える。
たとえ健常者でもワーキングメモリ自体は3,4アイテムの項目しか記憶できないとすれば、むしろ短期記憶を巻き込んだ注目要素のコンテクストスイッチのような能力が「今」を拡張してみせるのだろうか。
「今」を情報提示によるだけでなく、的確な投薬も含めて自己コントロールすること
予測される重大なイベントに対する備えとしての、投薬のタイミングと半減期のコントロール
予測される重大なイベントに対する備えとしての、投薬のタイミングと半減期のコントロール
◼
Knowledge Home
◼
適切な記憶の外部化
わたしの現状の認知能力ではすでに異なるフォルダにちりばめられた関連ファイル群を見つけだしてそれを統合して作業できない。
同時に複数の対象の「情報としての直観的距離感」を把握する能力が暫時低下し、階層ディレクトリというデータ格納方式が使えなくなりつつある。一度に複数の階層を同時に把握しつつ作業をすることが困難になりつつある。
cf. 動画リストNotebookのリンクテーブルの概略 (ノートブックの現状での使い方)
同時に複数の対象の「情報としての直観的距離感」を把握する能力が暫時低下し、階層ディレクトリというデータ格納方式が使えなくなりつつある。一度に複数の階層を同時に把握しつつ作業をすることが困難になりつつある。
cf. 動画リストNotebookのリンクテーブルの概略 (ノートブックの現状での使い方)
◼
ワーキングメモリ、短期記憶、コンテクストスイッチング
読み上げ算の例を鑑みると、集中と弛緩を使い分け「今」の領域を変化させる能力をいったん得ても、トレーニングをしなくなれば徐々にその能力は低下するが、逆になぜその能力低下は止まるのだろうか?その状態がそのときの認知能力で基本的な今をささえる容量ということなのだろうか?
カナリアのかごが意味を持つ場所は多分ここ:集中状態の限界点付近
カナリアのかごが意味を持つ場所は多分ここ:集中状態の限界点付近
システムがわたしの「今」の領域の形状を推定しつづけ、その形状変化、もしくは変化しないことを可視化し、特定の対象への過集中状態の過度な持続や、不必要な思考の危険なレベルの循環を検出できることが重要。
cf. http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.91-106
cf. http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.91-106
なぜARグラスが必要なのか?
なぜARグラスが必要なのか?
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ARグラスを「忘れてしまう」かもしれないが、それでも...
わたしはPCやタブレット利用期間がかなり長いため、認知能力が落ちてもそれらに頼り続けるのが正しいのかもしれない (50代を過ぎて使い始めたものをいつまで使い続けられるだろうか?) が、それでもARグラスに移行したい。
それは、ある程度以上の複雑さを持つデータを、いくつかの部分と全体を同時に把握しつつ、それらの部分を扱うときや、たとえ単純であっても複数の作業を同時並行せねばならない設定では、そのとき眼前にあらわれたもの(本来は同時に扱いたいものの一部分)しか「今」と認識できなくなりつつあるからである。
それは、ある程度以上の複雑さを持つデータを、いくつかの部分と全体を同時に把握しつつ、それらの部分を扱うときや、たとえ単純であっても複数の作業を同時並行せねばならない設定では、そのとき眼前にあらわれたもの(本来は同時に扱いたいものの一部分)しか「今」と認識できなくなりつつあるからである。
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「今」を拡張制御できる
PCでは、常にスクリーンに注目し続けねばならない。目を離した瞬間に「今」を失ってしまうかもしれない。ARグラスを使うと、少なくともグラスを装着している間はわたしの時間的空間的な「今」の認識により強く干渉できる。
http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.486
http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.486
◼
プライバシーの確保と、適切な「わたしの今」への介入
また、ARグラスは他の表示デバイスに比べ(比較的)プライバシーを確保しやすい
詳細は動画「ARデバイスでの可視化と作業支援」参照
See also http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf のp.421
詳細は動画「ARデバイスでの可視化と作業支援」参照
See also http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf のp.421
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絶対ではないがのぞきこまれにくい
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わたしの「今」にとっての共有モードのリアルとバーチャル、パーソナルフィットとプライバシー
現状の1チャネルのビデオ会議アプリによるによるプレゼンで適切な「今」を共有したコミュニケーションは難しいし、そもそもそういうプレゼンを支援する普遍的な方法は存在しない。
PC画面にあと何分で終了と表示しても、わたしの今にその表示が入っていなければ無意味
もちろんZoom社がわたしの認知能力変動や、ハンディキャップを把握していないと従来のアプリでそれを実現することはできない。しかも、縦割りアプリを作成している企業すべてがそれを共有している必要があることになる。
PC画面にあと何分で終了と表示しても、わたしの今にその表示が入っていなければ無意味
もちろんZoom社がわたしの認知能力変動や、ハンディキャップを把握していないと従来のアプリでそれを実現することはできない。しかも、縦割りアプリを作成している企業すべてがそれを共有している必要があることになる。
Projected Work Instructions on the F-35 Lightning
https://www.youtube.com/watch?v=LvD2-_Tl7j4
See also http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.324, 328, 345
https://www.youtube.com/watch?v=LvD2-_Tl7j4
See also http://www.iec.hiroshima-u.ac.jp/~imai/docs/cane3.pdf p.324, 328, 345
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Knowledge Homeの中でプレゼンする
『Knowledge Homeから引っ越さない』
『Knowledge Homeに引きこもって』老後を生きる。むしろアウェーでプレゼンするときでも仮想空間としての自分の “knowledge home” をそのまま現場に持ち込めばよい。
自分の “Knowledge Home” に適切なセキュリティ設定がなされていて公開非公開がはっきりしていれば、わたしが不在であっても視聴者としての第三者に対する非同期なプレゼンが成立するかもしれない。
『Knowledge Homeに引きこもって』老後を生きる。むしろアウェーでプレゼンするときでも仮想空間としての自分の “knowledge home” をそのまま現場に持ち込めばよい。
自分の “Knowledge Home” に適切なセキュリティ設定がなされていて公開非公開がはっきりしていれば、わたしが不在であっても視聴者としての第三者に対する非同期なプレゼンが成立するかもしれない。
◼
自己説明的ARグラス?
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先延ばし(procrastination)と取り繕い反応
その昔、子供のころ、サンダーバードのような「出動」にあこがれたものであった。
しかし、包括支援や警察から呼び出されて何度も「出動」しているうちにその認識は変容せざるを得なくなったわけだ。
昨年の夏に、信じられない “procrastination” 状態になった知人がいて、その仕事を一部肩代わりしたことがあったのだが、その時に認知症の親の介護による問題であることを知った。もちろん本人はできるだけそれを他者に悟られないように取り繕い状態で切り抜けようとしているわけだけど、それに対してできる助言は何もない。
まあ、同様の状態を体験した結果、わたしは非可逆的なダメージを負ったことを淡々と説明して、一線を越えることがないようにしてほしいというぐらいである。実際問題あの時を振り返って、こうしておけばよかったと思うことは余りない。ただただ、最善(といわないまでも悪くない)手を打っていた。ただ、詰将棋のように一手一手その時の持ち駒で可能選択肢がそれしかなかっただけである。回避するためにはまったく異なる道をもっと以前の段階で予防的に取っておく以外になかったわけで。
で、つい先週、別件で彼から返事がないという話があって、確認のメールを送ってみたら
『会議への参加については,昨年度までの事情が続いておりますため,難しい状態です.
# 常に電話連絡等で呼び出されないかという緊張が続いております….』
である。一年間「出動」のためのスタンバイを続けているわけだ。残念ながわたしにできる助言は何もない。
取り繕い状態を続けて表に出すことを避けたまま自らの認知能力低下を招いている人たちは想定よりもはるかに多いのだろう。そのような認知症介護により日本が失っている経済損失はどれくらいなんだろうね。
その昔、子供のころ、サンダーバードのような「出動」にあこがれたものであった。
しかし、包括支援や警察から呼び出されて何度も「出動」しているうちにその認識は変容せざるを得なくなったわけだ。
昨年の夏に、信じられない “procrastination” 状態になった知人がいて、その仕事を一部肩代わりしたことがあったのだが、その時に認知症の親の介護による問題であることを知った。もちろん本人はできるだけそれを他者に悟られないように取り繕い状態で切り抜けようとしているわけだけど、それに対してできる助言は何もない。
まあ、同様の状態を体験した結果、わたしは非可逆的なダメージを負ったことを淡々と説明して、一線を越えることがないようにしてほしいというぐらいである。実際問題あの時を振り返って、こうしておけばよかったと思うことは余りない。ただただ、最善(といわないまでも悪くない)手を打っていた。ただ、詰将棋のように一手一手その時の持ち駒で可能選択肢がそれしかなかっただけである。回避するためにはまったく異なる道をもっと以前の段階で予防的に取っておく以外になかったわけで。
で、つい先週、別件で彼から返事がないという話があって、確認のメールを送ってみたら
『会議への参加については,昨年度までの事情が続いておりますため,難しい状態です.
# 常に電話連絡等で呼び出されないかという緊張が続いております….』
である。一年間「出動」のためのスタンバイを続けているわけだ。残念ながわたしにできる助言は何もない。
取り繕い状態を続けて表に出すことを避けたまま自らの認知能力低下を招いている人たちは想定よりもはるかに多いのだろう。そのような認知症介護により日本が失っている経済損失はどれくらいなんだろうね。
結局、カナリアの入った籠を常に携えて歩けいうことで、AppleWatchをつけておくこともそうかもしれないが、問題はカナリアが弱っていることの意味が自分の認知能力で把握できなくなることである。そもそも、カナリアが弱っていても何とか切り抜けられる状態を何度か体験することで、感覚がマヒしてそれを警告として認識できなくなってしまう段階でのどこかで、もはや後戻りのできない一線を越えてしまう可能性が高い。その一線を可視化し自分に対してプレゼンできるだろうか。ただ、そのような認知バイアスを徹底的に排除しガードする自衛メカニズムは、例えばうつ病の進行に対処する手段となるかもしれないが、認知症に直面するときの「杖」として実は正しいものではないかもしれない。
◼
自分の状態を記録しつづけること
主観による心的状況を入力しているのだけど、どうも主観的にすぎる
映像とセットで記録し、それをもとに議論すればよいのか
映像とセットで記録し、それをもとに議論すればよいのか
◼
自己説明的なライフログ
◼
クラウドサービスの非公開データは縦割り
一般にblogやYouTube動画によるVlog、tweetの集合体などによるライフログは一見の潜在的視聴者に対して「今」の共有が難しい。「今」を探し出すツールは実質google検索しかなく、もちろんすべて公開データに限られる。残念ながらクラウドサービスの非公開データは縦割りであり、営利企業である大手IT企業たちはどこまで面倒見てくれるのだろうか。Facebookはグループ内非公開データを「90-x年後」にも維持してくれるだろうか?
◼
ストレージの容量当たりの単価の下落をいつまであてにできるか?
◼
Discussions
Discussions
K: 『CIHCD2022の概要動画を見せていただきありがとうございます.素直に入りすぎて聞き漏らしそうなほどで,すごくうまく書いて話されていますね(皮肉とかじゃなくて,いい意味です).一箇所「ツールが自己説明的なら,それ自体がプレゼンテーション」というくだりで,「ツールがプレゼンテーション」という比喩がちょっと引っかかりました.いい案ではなく単なる言葉遊びになっていますが,「道具そのものが表現(あるいは表現行為)」というより,「ツールに記録されたものが表現」な気がしています.おそらく今井先生の言われているプレゼンテーションは,放送業界で作られているドキュメンタリーに似ている気がします.それから,私の語彙不足で「自己説明的」という言葉の意味をWebで調べてしまいました(autological?).長時間版のプレゼンでは自己説明的という言葉の言い換えも加えられたらよいかもしれません.(スレッドを出てみました)』
Imai:『「自己説明的」はself-explanatoryとかself-describingのつもりで使っています。
『◆ “explanatory” は「説明的な」を意味する形容詞。よって、”self-explanatory” の直訳は「自分で説明的な」。自ら説明しているので、別途証明・説明がなくても、「自ずと明らか」で「自明」。
https://mickeyweb.info/archives/6756 』
“self-explanatory executable document”で、「一目瞭然な実行可能文書」になるのですが、さすがに一目瞭然ではしっくりこないので、語源に忠実に自己説明的にしました。
言いたいことは、「すべてのソースとその実行系を含むシステムは ∀x, self-contained for x だが、もちろん ∀x,self-describing for x ではない。」
ということで、認知変動にかぎらず、ヒトのプレゼンテーションは自分を含めた聴き手に依存した文脈下にあり、実行する文脈によっては「ばあさんやあれ持ってきて」というだけでプレゼンが成立するシーンもある、と。
で、「ツールがプレゼンテーション」というのはマクルーハンの “UNDERSTANDING MEDIA The Extensions of Man”での主張である「メディアはメッセージ」とひっかけてありまして、プレゼンツールがプレゼン自体を記述したドキュメンタリー作成過程そのものを包含できなければ、↑のような「多重解像度」のプレゼンテーションを実現できないという結論です。
パワポスライドのように切り抜いた言葉で「ばあさんやあれ持ってきて」と書いてあるだけでは、認知症になった自分が料理をする時に、自分に向けてのレシピや電子レンジの使い方や説明できる多重解像度のプレゼンを支えられない、と。
『それを「メディアはメッセージである」というちょっと意表を突く表現で示すところがマクルーハンならではである。彼はメディアは手段に過ぎず、要は使い方次第だといった考えを「麻痺を起こした技術馬鹿の陶酔である」と批判し、「ラジオの影響はラジオの番組編成とはまったく関係がない」とまで言った。』 https://president.jp/articles/-/15346?page=1
つまり「ツールに記録されたものが表現」ではなく「ツールそのものが表現」という立場ですね。
確かに、プレゼンの最中にZoomがトラブるというのは、プレゼンのドキュメンタリーを作成している人たちの視点が要求されるので、ドキュメンタリーに似ているのはわかります。
とすると、ドキュメンタリーを作成する人たちが機材トラブルに対処するときの視点はドキュメンタリーのドキュメンタリーを作成する立場になり、いつものメタ構造を持ちますね。
自己説明的なシステムは常にこの問題を抱えます。
ただ、とにもかくにも目的は「ばあさんやあれもってきて」を実現することで、そこはぶれてないです。
https://www.wolframcloud.com/obj/imai/Published/20200203-cane-CiNet.nb
Imai:『「自己説明的」はself-explanatoryとかself-describingのつもりで使っています。
『◆ “explanatory” は「説明的な」を意味する形容詞。よって、”self-explanatory” の直訳は「自分で説明的な」。自ら説明しているので、別途証明・説明がなくても、「自ずと明らか」で「自明」。
https://mickeyweb.info/archives/6756 』
“self-explanatory executable document”で、「一目瞭然な実行可能文書」になるのですが、さすがに一目瞭然ではしっくりこないので、語源に忠実に自己説明的にしました。
言いたいことは、「すべてのソースとその実行系を含むシステムは ∀x, self-contained for x だが、もちろん ∀x,self-describing for x ではない。」
ということで、認知変動にかぎらず、ヒトのプレゼンテーションは自分を含めた聴き手に依存した文脈下にあり、実行する文脈によっては「ばあさんやあれ持ってきて」というだけでプレゼンが成立するシーンもある、と。
で、「ツールがプレゼンテーション」というのはマクルーハンの “UNDERSTANDING MEDIA The Extensions of Man”での主張である「メディアはメッセージ」とひっかけてありまして、プレゼンツールがプレゼン自体を記述したドキュメンタリー作成過程そのものを包含できなければ、↑のような「多重解像度」のプレゼンテーションを実現できないという結論です。
パワポスライドのように切り抜いた言葉で「ばあさんやあれ持ってきて」と書いてあるだけでは、認知症になった自分が料理をする時に、自分に向けてのレシピや電子レンジの使い方や説明できる多重解像度のプレゼンを支えられない、と。
『それを「メディアはメッセージである」というちょっと意表を突く表現で示すところがマクルーハンならではである。彼はメディアは手段に過ぎず、要は使い方次第だといった考えを「麻痺を起こした技術馬鹿の陶酔である」と批判し、「ラジオの影響はラジオの番組編成とはまったく関係がない」とまで言った。』 https://president.jp/articles/-/15346?page=1
つまり「ツールに記録されたものが表現」ではなく「ツールそのものが表現」という立場ですね。
確かに、プレゼンの最中にZoomがトラブるというのは、プレゼンのドキュメンタリーを作成している人たちの視点が要求されるので、ドキュメンタリーに似ているのはわかります。
とすると、ドキュメンタリーを作成する人たちが機材トラブルに対処するときの視点はドキュメンタリーのドキュメンタリーを作成する立場になり、いつものメタ構造を持ちますね。
自己説明的なシステムは常にこの問題を抱えます。
ただ、とにもかくにも目的は「ばあさんやあれもってきて」を実現することで、そこはぶれてないです。
https://www.wolframcloud.com/obj/imai/Published/20200203-cane-CiNet.nb
『「一目瞭然な実行可能文書」になるのですが、さすがに一目瞭然ではしっくりこない』
についてですが、個人的には「あれもってきて」とか「がんばれまけるな」と伝えるだけでプログラムできるようになれば良いという願望があるので、「一目瞭然な実行可能文書」でOKなのですが、論文や発表タイトルとして微妙(「ばあさんやあれもってきてというだけでOKな実行可能文書」よりは良いですが)なのでこのタイトルなのでした。「一目でわかる実行可能文書」とかチープな経済本みたいなタイトルもありかもしれませんが:微笑:』
K:『ありがとうございます.実行可能って,計算機科学の人には共通認識がありそうですが,CIHCD2022の人にはどうなんでしょうか?バズワードのままがいいのかもしれませんけど.』
Imai: 『それは難しいところですが、これは昨年の続きでして、昨年のタイトルが「持続的自己説明的実行可能文書について」だったので、許容してもらおうということでして。
むしろ計算機科学の人がHyperCardやTeX/Webなどの化石時代:微笑:の試みとその崩壊を知らない世代が増えていて、コードとドキュメンテーションが分離している状況しか思い描けないのではないかと(老婆心ながら)心配しています。
たとえばJavaScriptは書く時とブラウザで読む時を完全に分離してしまっていますし。
むしろプログラミングを知らない人の方が、動的に反応するスケジュールメモみたいな印象を受け入れやすい印象があります。』
K: 『「実行可能」については了解です.感想です(私も「コードとドキュメンテーションが分離している状況」が安心できる開発者体質です(笑))』
Imai: 『わたしはいまでもSmallTalkとXanaduが融合していたら面白かったのにと考えている人間なのでした。
当時プログラミング主目的ならよいけどSmallTalkで日常のメモを書くのはきつそうと思ってHyperCardで頑張って文書書いてたらディスコンになってがっかりというのが原体験です。
ちなみにNelson先生はYouTuberになって直々にXanaduを語ってます。まあ、正直なところ認知能力が落ちたらわたしには使いこなせそうにないのですが:微笑:
https://www.youtube.com/watch?v=hGKbRcvIZT8 』
についてですが、個人的には「あれもってきて」とか「がんばれまけるな」と伝えるだけでプログラムできるようになれば良いという願望があるので、「一目瞭然な実行可能文書」でOKなのですが、論文や発表タイトルとして微妙(「ばあさんやあれもってきてというだけでOKな実行可能文書」よりは良いですが)なのでこのタイトルなのでした。「一目でわかる実行可能文書」とかチープな経済本みたいなタイトルもありかもしれませんが:微笑:』
K:『ありがとうございます.実行可能って,計算機科学の人には共通認識がありそうですが,CIHCD2022の人にはどうなんでしょうか?バズワードのままがいいのかもしれませんけど.』
Imai: 『それは難しいところですが、これは昨年の続きでして、昨年のタイトルが「持続的自己説明的実行可能文書について」だったので、許容してもらおうということでして。
むしろ計算機科学の人がHyperCardやTeX/Webなどの化石時代:微笑:の試みとその崩壊を知らない世代が増えていて、コードとドキュメンテーションが分離している状況しか思い描けないのではないかと(老婆心ながら)心配しています。
たとえばJavaScriptは書く時とブラウザで読む時を完全に分離してしまっていますし。
むしろプログラミングを知らない人の方が、動的に反応するスケジュールメモみたいな印象を受け入れやすい印象があります。』
K: 『「実行可能」については了解です.感想です(私も「コードとドキュメンテーションが分離している状況」が安心できる開発者体質です(笑))』
Imai: 『わたしはいまでもSmallTalkとXanaduが融合していたら面白かったのにと考えている人間なのでした。
当時プログラミング主目的ならよいけどSmallTalkで日常のメモを書くのはきつそうと思ってHyperCardで頑張って文書書いてたらディスコンになってがっかりというのが原体験です。
ちなみにNelson先生はYouTuberになって直々にXanaduを語ってます。まあ、正直なところ認知能力が落ちたらわたしには使いこなせそうにないのですが:微笑:
https://www.youtube.com/watch?v=hGKbRcvIZT8 』
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プレゼンテーションは双方向
固定した発表者と視聴者という立場を想定したプレゼンアプリはわたしは多分使えなくなる